原子爆弾とは〜注40

公開: 2019年8月26日

更新: 2019年8月xx日

注40. 満州の門戸開放

1898年にハワイを併合して、フィリピン・グアムも領土としたアメリカ合衆国は、東アジアへの進出を計画し始めました。このとき、清国が統治していた中国は、イギリス、フランス、ロシア、ドイツなどのヨーロッパ列強国によって分割が進められていました。さらに、後進の日本もその分割競争に加わろうとしていました。

アメリカ合衆国の国務長官であったヘイは、1899年、日本を含む主要国に対して、中国の主権を尊重するとともに、中国の港湾の自由利用を求める門戸開放(open door policy)宣言を発しました。1900年、後任の国務長官ジョンは、1年間の留保期間が過ぎたとして、門戸開放宣言が国際的に認知されたと宣言しました。これに対して日本政府だけは、異議を申し立てましたが、米国政府は、「国際的な政策として認められたものである」とする主張を展開しました。

1902年に米国政府は、満州における「ロシアの活動は門戸開放政策に反する」と主張しました。1905年に日露戦争が終結し、日本が満州南部の利権を得た時、日本政府は、「満州における門戸開放を維持する」と米国政府に伝えました。1909年に米国政府は、中国における鉄道建設を支援するための海外での資金調達のために、アメリカ、日本、イギリス、フランスの4か国が支援する銀行集合の形成を立案し、各国に働きかけました。

第1次世界大戦中の1915年に日本が、袁世凱が統治していた中国に対して、日本の権益を守るために対華21カ条要求を示したとき、日米間において、「中国における門戸開放は尊重されるが、米国政府は日本の中国における特殊な権益を認める」とする協定が結ばれ、事実上、門戸開放政策は米国政府によって放棄されました。

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